本陣跡

はじめに

江戸時代、参勤交代の諸大名をはじめ公家や旗本、幕府役人そして外国使節などが休憩したり宿泊するために、各宿場に特別に設置された施設を本陣と呼びました。脇本陣はその控え。

柏原宿本陣絵図

柏原宿には、江戸時代後期に描かれた「柏原宿本陣絵図」(個人蔵)が残っています。絵図の上が北。絵図の下を左右に走るのが往還道(中山道)です。本陣の間口は二十六間(約五十二メートル)で、街道に面して三つの入口が遭いています。建物は、大名などが休泊する部分(左図赤色)と南部家が日常生活を送る部分(左図青色)で構成されています。

柏原宿にあった大名たちの宿泊施設

「柏原宿本陣絵図」(個人蔵)図中の赤字や赤線は文久元年(1861)10月24日、皇女和宮が14代将軍家茂との婚儀のために柏原宿本陣に止宿した際の大改造を示している。
そのとき皇女和宮が宿泊したご一行の人数は、4144人、使った米は1500俵と伝えられています。そのための準備や当日の装備は大がかりなものでした。人足1万6千人のうち馬士千人、馬千頭、薪4千五百束、わらじ千足などを準備したという記録があります。そのときの賑わいぶりや混乱の様子が目に浮かびそうです。裏方の村役人たちも大変なご苦労だったことと思われます。このときの関連文書を柏原宿歴史館で展示・解説している。

谷口 徹氏 から1部抜粋

現存する柏原宿本陣

江戸時代には、人や物が移動する大動脈であった中山道ですが、明治時代を迎え、移動手段が鉄道などに移行するとともに、宿場はしだいに衰退することになりました。本陣とて例外ではありません。明治二十二年四月、大名が宿泊した上段の間など書院の主要建物と、その入口である式台や玄関が岐阜県垂井町宮代の地へ売却されました。現在も往時の姿をかろうじて見ることができます。

柏原宿本陣の上段の間

岐阜県垂井町に現存

柏原宿本陣玄関

岐阜県垂井町に現存
  • 住所:〒521-0202 滋賀県米原市柏原967−2