東の見付跡

柏原宿東の入り口で、見付は大名が当宿に泊まる際にはここに番人を立てた。西には西見付があった。
中山道を歩いてみると、街道沿いに見付という名前がついた場所を見かけます。信号名に使われていたり、石碑が残されていたりします。見付とはどういうところだったのでしょう。
見付とは、もともと見張りの番兵を置いた軍事施設で、江戸城では外堀に沿って多数の見付が配置されていました。赤坂見附、四谷見附といった地名はその名残です。
宿場の入り口にも見付がありました。江戸側にあるものを東見付、京側にあるものを西見付と呼びます。
絵図を見るとそれがどのような構造物であったかを伺い知ることができます。絵には、街道の両側に土を盛り、さらにその上に矢来(柵)を置いた構造物が描かれています。
これを見ると、江戸初期には、街道ないし宿場そのものが軍事施設的な性格が強かったことが伺い知れます。近世後期になると、見付は各地の一里塚と同じように道路の拡張などで撤去されたようです。